ハゲタカファンドは、なぜハゲタカなのか?――傲慢ファンドが嫌われるわけ 山口揚平の時事日想

» 2007年07月03日 03時55分 公開
[山口揚平,Business Media 誠]

 先日、保田隆明氏の講演を聞きに行った際に思い切って質問をしてみた。「ハゲタカファンドとそうでないファンドの境目は一体どこにあるのか?」という問いだ。

 保田氏はいつもの優しい笑顔で一言、「フェアネスの欠如」と答えた。その通りだと思う。フェアネスといっても法律を守るかどうかということだけでなく、倫理面においても“フェアであるかどうか”が線引きというわけだ。

 ハゲタカファンド(英語ではVulture fund)とは、もともと屍肉を漁るハゲタカのイメージから来たもので、破綻した(あるいは破綻寸前の)企業を安値で買取り再建させた後に売却する投資ファンドを指す。

 しかし最近は、ネガティブな投資行動を取るファンドをハゲタカファンドと呼ぶようになった。マスメディアの報道から発して、一般的なハゲタカファンドのイメージは、やり方が汚い、会社を食い物にしている、法律を守らない、楽して儲けている、外資系である(これはひどいか)などが挙げられることが多い。しかし実際には、何がハゲタカなのか?という正確な定義はない。

ハゲタカファンドと一般株主の違いとは

 ではハゲタカファンドの正体とは何だろう。端的に定義すれば、「他の利害関係者(社員、経営者、株主など)の犠牲の上に、自らの利益を創るファンド」といえるのではないか。

 今さらだが、法律上、会社は株主のものである。だがそれは株主が最終的なリスクをとっているために、会社の最終意思決定権を有しているということに過ぎない。

 広義では、会社はそこに関わるすべての利害関係者のために存在している。利害関係者とは、具体的には顧客・取引相手・従業員・経営者・そして株主達である。より大きく見渡せば、会社は、社会全体の価値創出の1つのピースを担っているとも言える。

 ファンドがハゲタカと呼ばれるのは、これら利害関係者の犠牲の上に自らの利益を創ろうとした時である。例えば、不当な従業員の解雇や、取引相手との契約打ち切りによる利益創出、事業資産の売却による現金化の株主還元などがこれにあたる。

 なるほど、確かに株主は、従業員や経営陣の犠牲の上にそれらをコントロールできる。大口の株主であるファンドが、このように利益を創ることはできそうだ。

 では同じ株主にとってはどうだろうか? ファンド以外の株主の利益を犠牲にして、ファンドは利益を創ることができるのだろうか。

 もちろん“仕手”的な手法で、株価をコントロールし、売り逃げによって利益を創ることはできるかもしれない。ただ厳密には、株主平等の原則が働くため、“ファンドだけが儲かってその他の株主が損をする”という構図はなかなか生まれない。ファンドが株主利益を追求すれば、他の株主も潤うはずである。つまりファンドも他の株主も、ある会社の株主である限り、一連托生といえる。

 株主は、皆、自分が所有する株の価値を高めたいと考えている。だからハゲタカであろうと、株の価値を高めてくれるのであれば同調するはずである。

 しかし最近の議決権行使の事例を見ると、ファンドの行動に同調しない株主(主に個人株主)も増えている。これはなぜだろうか。

2年で2倍?10年で10倍?どっちがお得?

 ハゲタカファンドと他の株主との意見の不一致は、「投資の時間軸の違い」から生まれることが多い。短期での価値の顕在化と長期での価値創造では、そのプロセスに違いが生じることがある。

 ファンドは、1社への投資期間が短い。理由は単純で、長期に投資をすると投資効率が悪くなるからだ。ハゲタカファンドが狙う企業の多くは、何らかの改善ポイント、言い方を変えれば投資収益の源泉を持っている。それは膨れ上がったコスト構造かもしれないし、現経営陣のマネジメント能力の欠落、あるいは資産の活用実態の低さかもしれない。買収して、自らのコントロールの下でこれらを治療すれば、株主価値を高めることができる。

 だがさらにそれ以上の価値創造を継続的に行うためには追加的に投入する時間やコストがかかる。したがって、ある程度、当初の“ストーリー”が完結した段階で次のターゲットにシフトしたほうが投資効率はよい。世界に上場会社は約4万社、日本だけに限っても上場企業は2500社余りあるので、新たなターゲットを探すことは困難ではない。

 一方で、他の株主はその会社が長期的に生み出す価値創造にコミットして株を保有しているケースも多い。これらの株主は、例えば10年かけて株主価値を10倍にするようなことを期待しているのだとしよう。

 ファンドが会社を支配し、解体して売却することで2年間でリターンを2倍にできるかもしれないが、息の根を止められたその会社は、その後は事業の遂行によって価値を創造する機会を失うことになる。両者はトレードオフの関係にあるのだ。

 長期投資家は、紆余曲折がありながらもその会社の長期での価値創造を信じるが、ファンドは長期の目に見えづらい価値よりも短期の現金を優先する。

 ファンドにとっては、2年で2倍になるほうが10年で10倍になるよりも都合が良い。2年で2倍になれば内部収益率(年率リターン)は約40%だが、10年で10倍なら内部収益率(年率リターン)は26%となる。単純にNPVやIRRなどの経済尺度でみれば、ファンドのほうが合理的であるといえる。

 投資リターンを追いかけるのであれば、買収によって影響力を行使してうまみだけを掬い取って、次のターゲットを狙うというやり方が効率的ではある。だがこれは見方を変えれば資本主義のしくみを利用した取立屋にもみえる。

投資の目的はリターンだけではない

 では、他の株主が長期で会社に関わろうとするのはなぜだろうか? 投資ファンドのように、次のターゲットを狙うだけの情報や時間が不足しているからなのか? もちろんそれもあるだろう。あるいは単にファンド陣との投資知識の格差から、どちらが良い判断かが分かっていないのかもしれない。

 しかしファンドとそうでない株主との本質的な違いは、実は、経済的リターン以外の視点を組み入れるか否かにあるのではないか。これはある種の人々にとっては驚くべきことかもしれない。

 例えば私の最初のキャリアはM&Aから始まったが、当時付き合った“外資”な人々にとって会社は純粋なキャッシュマシーン(金製造機)だった。まだ買収が終わらないうちに、EXIT(売却)戦略を考えているファンドもあった。そんな考え方に違和感を感じてきたが、株主資本主義の浸透している米国では、これはとてもベーシックな考え方である。

 しかし、投資がある種の社会的「投票」であると考えれば、非経済的視点からの投資についても合点が行く。例えばその会社が創出している商品やサービスへの共感があり、株主としてリターンを求めつつも企業への応援をしたいという考え方である。私自身、投資リターンを求めながらも自分が株主であることを誇りに思える企業へ投資したいと思っている。

 果たして会社は「共同体」なのか、それとも「経済体」なのか?というテーマは掘り下げるとキリがないが、私は、会社とは経済体でありながらも共同体的仕組みを内包するものだと思う。従って非合理な判断や行動もするだろう。それでもその会社に投資する目的は、シンプルにリターンだけではないと思う。その会社の株式を保有することは、その会社の価値創造に関与することに他ならない。

 短期リターンを得ようと画策し、株価という記号に翻弄されるようになると、株の先に企業があり、企業の先には社会がある、という当たり前の現実を失わせる。株主が目に見えるリターンだけを求めていくと社会全体が短視眼的になる。

 現在の資本市場は四半期決算の導入やCEOの早期交代など、短期で成果を求める傾向が極端に強くなっているように思う。もちろん株主価値顕在化に積極的なファンドは、日本のコーポレートガバナンスの成熟化に貢献してきた面はあると思う。しかし行き過ぎた短期利潤の追求は企業の長期的視点での行動を制約し、将来的な日本社会の価値創造にマイナスに働くのではないだろうか。それを防ぐためには、私たち市民株主が投資の本質的意義を、再度、確認する必要があるのだと思う。

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