第7鉄 SLと旅客機を同時にパチリ――貝塚公園でナハネフ22が待っている杉山淳一の +R Style(2/3 ページ)

» 2009年06月11日 21時00分 公開
[杉山淳一,ITmedia]

ナハネフ20と9600形機関車

 そこからしばらく歩く。もちろんキープレフトで車道を行く。そこにひょっこりと、青い丸顔の客車が現れる。ブルートレインブームの火付け役、20系客車の展望車の「ナハネフ22形」である。車両形式の「ナハネフ」とは、ナが自重27.5トン以上32.5トン未満の軽量型を示す。ハはイロハのハで普通車。ネはネルで寝台車。フは車掌室がある車両だ。車掌室には安全用の主導ブレーキ装置があるので、ブレーキのフである。22の十の位の2は集中電源方式といって、ディーゼル発電機を積んだ電源車を連結し、そこから客室サービス用の電力を得る。一の位はバージョンが上がるたびに1つずつ増えていく。

丸顔のナハネフ22形

 この数字が20から23までの客車を“20系客車”という。それまでの無骨な茶色い寝台車と違い、丸みを帯びた形、ブルーの塗装に白い帯というしゃれたデザイン。集中電源車の採用によって実現した完全冷房車。台車にはエアサスペンションを搭載して、走るホテルと形容され、日本の寝台車の常識を変えた。のちにブルートレインと呼ばれブームを作った客車である。20系は1958年から1970年にかけて473両も製造されたという。東京から九州各地に向かった寝台特急はほぼすべて20系だった。客室は幅52センチメートルのベッドが3段。後に“カイコ棚”などと揶揄されるけれど、これが食堂車を連結した「走るホテル」だった。

 その後、寝台幅70センチメートル、さらに2段寝台化された新型が登場し、20系は特急用から急行用へと格下げされていく。貝塚公園のナハネフ22の側面には「かいもん」「門司港−西鹿児島」という行き先幕が表示されている。急行「かいもん」は鹿児島本線の夜行急行列車で、この寝台車のほかに座席車も連結した。私が高校生の頃、九州ワイド周遊券で旅したときは、「かいもん」が宿代わり。あの頃は寝台車をうらやましく思ったものだった。

走るホテルと呼ばれた車体(左)。筆者には懐かしい「かいもん」の文字(右)
汚れたガラス窓から室内を覗く(左)。最終検査は昭和59年(右)

 ナハネフ22に連結された蒸気機関車は、プレートに49627とある。9600形蒸気機関車の428台目である。9600形蒸気機関車は、日本で初めて大型ボイラーを搭載した貨物用機関車だ。動輪は片側4つ。機関車本体の後ろに炭水車を連結している。そこに石炭と水を蓄えれば、途中駅の補給を省略できる。長距離走行に対応した機関車の姿である。蒸気機関車といえばデゴイチ(D51)が知られているが、9600形は簡単に言うとデゴイチの先祖だと言えるだろう。

 9600形は、1913年から1926年までに770両も製造されたという。1926年は大正15年だから、この機関車は大正生まれ、昭和で活躍、重厚長大路線を進んだ日本そのものを牽引したと言っていい。そんな機関車に敬意を表して、各地の公園に安置された仲間も多いと聞く。しかし、さすがに動く状態で保存された車両はない。

 ちなみに、428台目が「49627」という妙な番号になった理由は、9600を第1号機とし、100両作って9699まで来たところで桁がなくなり、仕方なく「19600〜」と、百の位を万の位に移動させたからである。設計したときは同じ型を100両以上も作るつもりはなかったのだろう。しかし770両も生産された。5桁のプレートは、この機関車がいかに性能が良く、重宝されたかを物語っている。

大正時代の機関車9600形

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