「タラレバ」「ないものねだり」は非一流の証一流の働き方

ホンダの創業者・本田宗一郎さんをはじめ、時代を変える新しい技術を開拓する一流人に「ないものねだりのタラレバ」という発想はない。

» 2014年01月20日 10時00分 公開
[川北義則,Business Media 誠]

集中連載『一流の働き方』について

 本連載は、2013年11月26日に発売した川北義則著『一流の働き方』(アスコム刊)から一部抜粋、編集しています。

 なぜあの人の仕事は、いつもうまくいくのか? 一流は困難なときこそ楽天的である。「忙しい」は、二流の口グセ。「努力」は、他人に見せたときに価値を失う。仕事ができる人は、孤独を恐れない――頭角を現す人にはこのような条件を持っている。

 本書は、人気ベストセラー作家が「頭角を現す人」の究極の仕事術を39の条件にまとめ語り尽す一冊。あなたも「あの人のようになりたい」といわれる人間になろう!


 「下町のエジソン」

 こう呼ばれている人たちがいる。「痛くない注射針」の岡野雅行さんなどがそうだ。天才と呼ばれる人に与えられる称号である。ビジネスでも、成功した人物に別の分野での成功者の名前を挙げて、そんな称号が与えられる。エジソンに該当するのは、誰もが知っているパイオニアの名前だ。

 ホンダの創業者・本田宗一郎さんは、その典型といえるだろう。ご存じのように、本田さんは裸一貫から事業をスタートさせ、世界のホンダを築いた。その本田さんは、世界を代表する企業のトップに立った後も、技術屋であることにこだわり続けた。モノづくりへの情熱、技術開発、事業実績、人材育成、残した言葉――。どれをとっても一流の仕事人らしい足跡を残したが、最後まで「技術屋魂」は健在だった。

 さすがに周囲の反対で実現はしなかったが、文化勲章受章の授与式に「白のつなぎ」で臨みたいという希望をもらしていたそうだ。

「白のつなぎは技術屋の正装だ」

 それが本田さんのプライドである。大企業のトップであることよりも、一流の技術屋であることに誇りを持っていた証といえる。

 「資本がないから事業がうまくいかないという人がいる。しかし、それは、資本がないからうまくいかないのではなく、アイデアがないからうまくいかないのだ」

 本田さんは数々の格言を残してきたが、その中でも私が好きな言葉がこれだ。潤沢な資金があり、何をやっても許される環境でのビジネスなら、凡庸な人間でも成功させることはできるかもしれない。しかし、かぎられた条件のもと、自分の発想力を頼りに道を切り開き、成功を収めるには高いレベルの技術がなければむずかしい。それができる人間こそが、一流と呼ばれる人なのである。

 技術者であれ何であれ、他人が驚くような成果を上げる人間は、何があったら、何があれば、という「タラレバ」を実現不能の言い訳にはしない。本田さんの言葉は、一流の仕事人の心構えを表している。

創意工夫で客の心をつかみ取る

 和歌山県にある「東洋ライス株式会社」の雑賀慶二さんも、その1人だ。「無洗米」で知られる「お米の総合メーカー」の社長である。お米は洗うものという常識を引っくり返したのだ。ホンダと規模は違うが、そのメンタリティと成し遂げてきた業績に、一流の技術者の香りを感じる。

 雑賀さんの実家は、もともと精米機の修理販売業を営んでいた。ところが戦争中の空襲で、すべてを失った。父親はとたんに無気力になり働かなくなった。しかし、家族は食べていかなければならない。雑賀さんの少年時代は、父親に代わり5人の家族のために食料を調達するのが日課だったという。

 近くの川で獲れるウナギや鯉などの魚は重要な食料だった。それらをたくさん獲るためには、「他人と同じことをしていてもダメだ」と彼は考えた。どうしたらいいのか。雑賀さんはそればかりを考え続けたという。

 そのとき悟ったのが「魚の立場になって考えればいい」ということだ。その思考が、いまの成功の礎になっているという。

 「商売で成功するためには、常に相手の立場で物事を考えることである」(『日刊ゲンダイ』2013年8月5日)

 少年時代の魚獲りのとき、彼はどんな状態のときに魚はエサに食いつくのか、魚の立場で考えて、仕掛けの工夫、エサの工夫、仕掛ける場所の見定めなどを徹底して研究した。そのかいあって彼は、中学生ながらも大人以上に多くの魚を獲った。魚が何を求めているか想像力を働かせ、調査して、アイデアを出し、技術と工夫の力で成果を収めたのだ。

 中学卒業後に、家業を手伝ったときもそうだったという。彼に仕事を教えてくれたのは、父親ではなくお客たちだった。お客のニーズに応えられるように機械を研究し、知識と技術を体で覚え、お客にその成果を還元していった。

 雑賀さんは、アイデアの泉のような人である。1951年に画期的な精米機の第一号を製作して以来、次から次へと精米業界にとって革新的な開発を成し遂げた。精米の際、米に混ざっている小石や異物は、機械の故障の原因になる厄介なものだったが、雑賀さんは第1号開発から12年後の1963年に、自動石抜撰穀機を製作。その後も数々の特許、実用新案登録を取得する技術を開発していったのである。

何のために仕事をするのか

 雑賀さんはその後、精米機だけではなく、包装機、炊飯器などの製作も開始、お米そのものの改良から精米技術の向上にも力を入れた。そして、まったく新しい商品を開発した。それが「無洗米」である。技術向上の集大成といっていい発明だった。すべては、お客さんのニーズに応えたいという思いから突き進み、開発していったものである。

 無洗米の技術は、単に「洗わないで炊けるお米」にとどまらず、さらに進化を続けていった。白米以上の美味しさと、玄米に含まれる米本来の栄養を失わず、かつ摂取カロリーを減らすこと。これを実現させた理想的な米こそが「金芽米」である。いまでは知らない人はいないといわれる「タニタ食堂」の主米としてもおなじみの無洗米だ。

 「洗わないで、すぐに炊けるお米が欲しい」

 ひと昔前なら、あまりの不精さにひんしゅくを買いそうな要望だ。主婦の手抜きではないかと非難されそうでもある。しかし雑賀さんは、それを目標に開発を行い、そして見事に商品化した。すべては、お客さんのニーズに応えたいという思いが生み出した産物である。

 空襲によりすべてを失い、アイデアで勝負することを身に付けた雑賀さん。精米業界に革新的な技術をもたらした彼のことを、人はこう呼ぶ。

 「精米機業界の本田宗一郎」

 時代を変える新しい技術を開拓する一流人には、「ないものねだりのタラレバ」という発想はない。

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