それが本当にやりたいことなのか?感動のイルカ(1/2 ページ)

浩は、最近これまでの人生を回想していた。「そうか、立派な父ちゃんになりたいんだ」。そう思った浩は外務省で青年海外協力隊の募集要項の資料をもらい、応募するのだが――。

» 2009年09月16日 19時00分 公開
[森川滋之,Business Media 誠]

前回までのあらすじ

 ビジネス小説「奇跡の無名人」シリーズ第3弾「感動のイルカ」は、アクティブトランスポートの代表取締役CEOである猪股浩行さんの実話に基づく物語である。

 主人公の猪狩浩(いかり・ひろし)は、15人の部下を持つほど営業マンとして成功を収めたが、不況になるにつれ部下の管理も行き届かなくなり、浩本人が取り込み詐欺に遭ってしまった。荒れる浩は清美にすがろうとするが、察知した清美は別れを切り出す。部長からはリストラを迫られ、傷心の浩は酒におぼれるのだった――。


 こうして浩は3日間、ずっと自分のこれまでの人生を回想していたのだった。

 珍しく3日も酒を飲まなかった。食事はコンビニ弁当で済ませた。元々何もない部屋なので、さほど散らかってはいない。捨ててないゴミがある程度だったが、シラフの目で見るとすこし薄汚れている気がした。そう言えば、もう何カ月も部屋の掃除をしていない。ところどころほこりが溜まっている。

 会社を辞める決心は着いた。しかし、これから何をしたらいいのだろうか。

 高校を出て上京して働き詰めだった。何の資格も持っていない。元々勉強が嫌いなのだから仕方がないが、自分もすでに25歳になった。こんなことでまともな仕事に就けるのか、本当に不安だ。

 自分だって人並みに結婚して、子供も持ちたい。でも、こんな夫、こんな父親でいいのか。一瞬、清美の顔が浮かんだが、慌てて打ち消した。

 オレって、人の役に立ってねえよな……。浩は急にそんなことを思った。何でそんなことを思ったのだろうか。3分間考えた。そうか、立派な父ちゃんになりたいんだ。息子か娘かは分からないけど、子供が自慢してくれる立派な父ちゃん……。

 そんなありふれたことが、浩にははるか彼方にあることのように思えてしかたなかった。いや、ありふれてないのかもしれない。子供に尊敬されている父親ってどのぐらいいるのだろうか。会社の先輩たちの顔を思い浮かべた。彼らの家族の顔がまったく思い浮かばないことに気がついてがく然とした。家庭人としてモデルになる人がいないのは寂しいことなのかもしれない。

 ふとボランティアはどうかなと思った。世界中の困っている人を助けるために、世界中を飛び回っている人間。これなら息子や娘に尊敬されるだろうか。

 あれは、なんて言ったっけ? 海外なんとか協力隊。ん? 海外青年協力隊か? 青年海外協力隊だったか? どっちだ?

 まだインターネットが家庭に普及していなかった時代である。浩はとりあえず大きな書店に行くことにした。名前もうろ覚えの団体を探すのは骨が折れたが、とりあえず外務省に行って聞いてみればよいということが分かった。

 翌日、浩は朝から出勤し、部長に辞表を提出した。部長は少しホッとしたようだった。退職のための書類一式をもらい、あとで郵送すればよいということになった。実にあっけらかんとした退職だった。

 帰ろうとすると、山口始が寄ってきた。

 「猪狩さん、本当に辞めちゃうんですか?」

 「ああ。辞表を出してきた。なんか、さっぱりしたよ」

 「オレ、なんかうまく言えないですが……」

 「ん?」

 「いや。お世話になりました。なんか最後のほうはぎくしゃくしちゃったけど、恩は恩で忘れてませんから」

 「ありがとな。頑張れよ」

 「はい。ありがとうございました」

 始の意外な態度だったが、しかし名残惜しさは湧かず、浩はさばさばした気持ちで会社のあるビルを後にした。この足で霞が関に向かうのだ。なんだか希望が見えてきた気がした。

 外務省で青年海外協力隊の募集要項の資料をもらい、近くの喫茶店で中身を見たとたん、そんな希望はどんどんしぼんでいった。

 なんだ。大卒で資格持ってて、しかも実務経験がないとダメなんじゃないか……。身ひとつで海外に行って、肉体と精神力を駆使して働けばよいのかと思っていたが、そんなに簡単なものじゃなかった。

 それでも一つだけ浩にも申し込めるものを見つけることができた。青少年活動。これなら社会経験さえあれば申し込める。学歴や資格は不問だ。募集人数は30人程度。これに申し込もう。なんか暑そうなところばかりだけど、色黒で日焼けに強いオレなら大丈夫だ。

 また希望が見えてきた。よし、とりあえず写真を撮りに行って、家に帰って応募書類を書こうと決心した矢先に、同じ封筒説明会の案内が入っていることに気がついた。無料と書いてある。これを聞いてからでも遅くはない。

 数日後、説明会に出た。海外から帰ってきたOBやOGたちの体験談があった。やばい、と浩は思った。こいつら本気だ。そうでないとこんなことは無理だ。自分は単に働き先がなくて逃げているだけだ。そう思い知らされた。個別面談の時間が用意されていたが、浩は途中で帰ることにした。よくよく考えたら英語だって自分はできない。

 もう夕方だった。たった1つの希望を失ったと思った浩は、飲まずにはいられなかった。飲めば飲むほど自己嫌悪が深まっていった。オレはもうダメだ。オレは最低だ。オレには将来なんかない。立派な父ちゃんなんて全然無理だ。オレは、オレは、オレは……。

そう言えば、このマンションも今月限りで出て行くんだった
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