あれから15年。アネゴはずっと派遣の仕事をしている。以前和人に、それだけ優秀なのにどうして正社員にならないのと聞かれたことがあった。「1回派遣に染まると、正社員ってなかなかなれないんですよ」と答えた。
アネゴが自分のことを負け犬だと感じたのは、正社員になれないからではない。一匹狼的な今の生き方は気に入っている。ただ、いやだからこそ、みんなで何かを成し遂げるということに憧れてもいる。今度の営業所は臨時の営業所だ。所長も所員もほとんどが雇われ。言ってみればプロジェクト、あるいはイベントのようなものだ。
幸い所長もチームで成し遂げようという考えの人のようだ。私もみんなの一員として頑張れる。C市のこの営業所でアネゴは、自分がずっと失っていたものを取り戻せると思っていたのだった。
和人が営業本部長に言われたことを聞いて、アネゴがまず感じたのは、自分が取り戻したいと思っていること、それを否定されたということだった。だから和人に食い下がった。言わなくていいことも言ってしまった。
言いたいことを言うのは私の性分だ。くよくよしていてもしかたない。アネゴは自分のできることはなんだろうかと考え始めた。朝から降る雨は激しさを増し、営業所の窓をたたく音がうるさかったが、アネゴの耳にはもはや入ってこなかった。
その翌日。アネゴは、同じ事務員のチェッカーと営業部員全員を誘ってランチに出かけた。
「みんな聞いて。所長がどんな風に言われているか、知ってるの?」。アネゴの強い調子に全員何が起こったんだという顔になった。
「営業マンとしては優秀かもしれないけど、所長としてはダメって言われてるのよ」
「誰がそんなこと言ってるんだ」。大口兄弟の兄タカシが大声を出した。
「営業本部長よ。いい? 今月ノルマが達成できなかったら、F市の営業所と統合するんだって。そうなったらジンジ以外は全員クビ」
「え〜、学費どうしたらいいの」。マザーが自分の心配をし出した。
「なんでそんな重要なことを所長は隠してるんだよ?」。今度は弟のショージ。
「バカねえ。みんなに余計なプレッシャーをかけたくないからにきまってるでしょ」
みんな黙ってしまった。アネゴは全員の顔を順番にみて、気持ちを落ち着けてから言った。
「ねえ、みんな、意地を見せてよ。私はいくつもの職場を渡り歩いてきたから知ってる。あんなにいい所長いないよ。売り上げが上がらなくて怒られた人、この中にいる? 所長のやり方を押し付けられた人もいないでしょ?」
ロバさんが、さかんにうなづいている。あの人がこんなアクションをするなんて――アネゴはすこしびっくりした。
「ロバさんもオタクもマザーもクオーターもここに来るまで、自分が何かを売れるなんて想像もしてなかったと思う。でも、所長の言う通りにやったら売れた。すごい人なのよ。その人が怒りもせず、押し付けもせず、上から言われたことも全部自分で受け止めてる。これに応えないで、何に応えるの。お願い、意地を見せて。みんなでやり遂げようよ」
アネゴは自分の声が震えているのに気付いた。いつの間にか大粒の涙がほほをはっていた。
「そのあと、マザーさんと近くの喫茶店で作戦会議したんです」
「うん」。和人はもはや自分の涙を隠そうともしなかった。
「マザーさん、言いました。しばらく個人はやめて、別々に会社を回ろうって。そうでもしないとノルマは達成できないって」
「そうか。マザーが……」
「私、怖いから一緒に回ってって言いました」
クオーターは、日本語がうまくしゃべれないことにコンプレックスを感じているのだ。
「そしたらマザーさん、私も怖いのは一緒。でも、二人で別々に回ったほうが確率が高くなるって」
「そうか」
「ホントに怖かった。最初は、入り口にも行けなかった。ひざがガクガクするんです。でも、押さえつけてなんとか入った。日本語苦手だから、受付の人に怪しがられた。門前払いって言うの? それやられました」
想像しただけで、和人の目は赤みを増した。怖かったんだね、ごめんね。そういうのが精一杯だった。
「でも、やってよかった。20社断られたけど、飯田さん、話聞いてくれた。ねえ、椿森契約できたら、来月も一緒に仕事できますか?」
「ぴったりなんだよ、クオーター。椿森電器の100回線で、今月のノルマをクリアできたんだ。君のおかげで営業所は救われたんだ」
緊張の糸が切れたのだろう。クオーターは、わっと泣き出してしまった。
連載「奇跡の無名人たち」の元になった話があります。それが、ぼくのビジネスパートナーである吉見範一氏から聞いた話なのです。この“法人営業の達人”である吉見氏によるセミナーを、以下の日程で開催します。ご興味ある方はぜひご来場ください。
筆者の森川“突破口”滋之です。普段はIT関連の書籍や記事の執筆と、IT関係者を元気にするためのセミナーをやっています。
Biz.IDの読者には、管理や部下育成といったことや、営業など専門知識以外のビジネススキルに関することなどに関心を持ち始める年代の方が多いと聞いております。
そういう方々に役に立つ話として、実話をベースにした物語を連載することになりました。元ネタはありますが、あくまでもフィクションであり、実在の団体・人物とは関係ありません。
今回の物語は、ぼくのビジネスパートナーである吉見範一さんから聞いた話を元にしたものです。ある営業所の若い女性が起こした小さな奇跡について書きます。営業経験がなく、日本語が達者じゃないのに法人営業に成功した話が始まります――。
大学では日本中世史を専攻するが、これからはITの時代だと思い1987年大手システムインテグレーターに就職する。16年間で20以上のプロジェクトのリーダー及びマネージャーを歴任。営業企画部門を経て転職し、プロジェクトマネジメントツールのコンサル営業を経験。2005年にコンサルタントとして独立。2008年に株式会社ITブレークスルーを設立し、IT関係者を元気にするためのセミナーの自主開催など、IT人材の育成に取り組んでいる。
2008年3月に技術評論社から『SEのための価値ある「仕事の設計」学』、7月には翔泳社から『ITの専門知識を素人に教える技』(共著)を上梓。冬には技術評論社から3冊目の書籍を発売する予定。
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